第 十 一 医 療 隊 救 護 所 跡

                    第十一医療隊記念碑由来記

■昭和20年(1945年)8月9日、原爆の日、 永井隆を隊長に長崎医科大学 十一医療隊(物理的 療法科)は医大付属病院での救護活動を終えたあと、 三ツ山(木場郷藤ノ尾・現川平町)に救護所を設け、原爆被爆者の診療を開始しました。
 8月12日より10月8日まで58日間に亙り、多数の被爆者を、一軒一軒たずねて回る。 充分な医薬品もない中で、救護隊員自らも原爆による影響を受けながらの救護活動でした。 全治79名・軽快10名・死亡29名・転出7名の記録が、「長崎医大原子爆弾救護報告書」に 記載されています。この救護活動の拠点となった一軒家が、裏手井戸の石垣の上にありましたが、年を経て今は跡形もなく、残るのは碑前の大きな柿の木と裏の枇杷の木が記憶しているだけとなりました。 私達は、第十一医療隊の医療活動を後世に伝えるとともに、この地に眠る被爆者の霊を慰めるため 記念碑を建立致しました。当時の救護所は高見家の建物でありました。またこの敷地は長崎県純心聖母の会より無償提供して頂きました。
 永井隆博士の出生地は島根県三刀屋町です

            平成4年12月
    第十一医療隊祈念碑建立の会
     
発起人:長崎如己の会(長崎市)
           三刀屋如己の会(島根県)
                長崎大学医学部放射線医学教室同門会
            永井誠一・筒井茅乃・永井元