博士は長崎医科大学卒業後、放射線医学を専攻し、助教授となり物理的療法科部長として教育研究そして 治療に従事した。しかし激務のため放射線の障害により慢性骨髄性白血病にかかっていたが、自らも被爆しながら
原爆被災者の救護に果敢な活動をつづけたため病勢を昂進させ、ついに不治の病床に臥することとなった。
しかし、博士は科学者としての不屈の研究心と、カトリック信徒としての燃ゆる如き信仰心により病床にありながら 「原子病概論」の執筆をつづけてこれを完成させるとともに10余冊の
随筆などを世に出し、昭和26年5月1日43歳で 永眠された。
ここは博士が原爆によって愛妻を奪われた後2人の幼児と共に最後まで生活した家で、 多くの著書はここで病臥のまま書かれたものである。
この二畳ひと間の小さな家は昭和23年春長崎浦上の隣人たちから贈られたものです。
永井隆博士は『己の如く人を愛せよ』というキリストの「みことば」を常に口にし実行する人でした。 博士は家を建ててくれた人々の心を忘れず自分もその愛に生きようとする心から『如己堂』と名づけました。
昭和26年5月1日43歳の生涯を閉じたその日まで、書斎兼病室としてここに住んでいました。