永 井 隆 博 士 の 業 績


 医家に生を受けた影響もあったのか、母(ツネ)の希望もあって昭和3年長崎医科大学に入学し、 医者の道を歩み始めた。それまで、唯物論的であった博士も、「医の本領は人間の魂を救うことにある。」と自覚し、 「魂こそ、人間の永遠の価値なのであるから、患者の生命を救うことができなくても、 せめてその魂は救いたい。」と思った。
 昭和6年、浦上天主堂近くの森山家(のち、一人娘の緑と結婚)に下宿していた頃から、 キリスト教に目を向け始めたようである。
 昭和9年、聖ヴィンセンシオ会に入会して無料診断・無料奉仕活動を通じて医師の仕事は病人とともに苦しみ、 楽しむことだと悟った。
 満州事変・日中事変を通じて72回の戦闘、生死の危機を脱すること20回、敵・味方の別なく傷病者の 救護に献身、幾多の中国難民の生命を救った。子どもたちにも日本語の童話を語り、絵本や古着をはじめ 塩や食料品を贈り、戦禍に痛めつけられた難民をいたわっていた。
(赤十字精神に徹した博士の人間愛)
 昭和7年放射線医学を専攻、昭和20年終戦。その間、物理的療法科部長として、学生・看護婦・放射線技師の 教育はもちろん、大学病院での診察・研究・医学会活動・市民の救護訓練と多忙を極めた。
 昭和20年6月白血病(余命3年)と診断され、8月9日原爆被災(緑夫人原爆死)、右側頭動脈切断するも 被爆者救護に挺身。(第十一医療隊原子爆弾救護報告書)救護活動中にも再出血のため、二度も意識不明になる。
 原爆はあらゆるものを灰塵化したばかりではなく、かけがえのないお互いの心をもバラバラに引き裂いてしまっていた。
 10月15日浦上に復帰して、さらに昭和23年春からは、畳二畳の如己堂に、重病の身を横たえながら浦上の人々を慰め、 訪れる人に励ましと生きる勇気を与えた。
 「戦争が起こるだろうかではなく、戦争は人間が起こす。やるか、やらないかは人間が決めるのだ。」そして、『平和を』の 切なる願いを世界の人々に訴え続けた。原爆の悲惨さから立ち上がる浦上での生活記録や自らの生活信条(如己愛人)を 基調とした体験記録などを書き続けた。
 昼間は多くの人たちと会い、夜は熱と痛みに耐えながら、いのち尽きるまで、多くの著書を書き続けるとともに、 子供たちには子供図書館(うちらの本箱)を建て、原子野に桜の並木(千本桜)を植え、浦上天主堂の復活を願い、 明るい平和な祖国の復興を祈ってやまなかった。
 バラを好み、歌を詠み、絵を描き、書を、そして幾多の著書や原稿をこの世に残した。
 聖人でもなく俗人でもない、自分の死を見つめ、ほほえみを死に顔に残したいと念じていたが、「そんなくだらぬ虚栄を たくらむと一生台なしになってしまう。ただいま、私はよい終わりを恵まれますようにと祈りながら、 心を整えている最中ですが、自信のないことおびただしい。」としきりに周りの人々にも祈りを求める気持ちが 働いていたようである。
 昭和26年5月1日、臨終でこい願っていたごとく、祈りつつ息を引き取った。しかも、神は博士の死に顔に 安らかなほほえみを許したもうたのである。