特設救護病院の跡 (新興善小学校)


ここは爆心地から南3kmの地点にあり、当日は爆風によって窓ガラスは飛び散り、午後になると付近一帯に火災が発生しましたが、類焼はまぬがれました。
 負傷者達は、あらかじめ戦時災害時に備えて計画されていた焼け残った救護所へと詰め掛けました。新興善国民学校もその中のひとつでした。
 10日の午後、針尾海兵団の救護隊249人が来てここを宿舎にしました。衛生材料も届きました。ここに救護隊がいるという噂が市民に伝わり、治療を受けにぞくぞくと集まってきました。4列に寝かせて1教室あたり60人を収容、1階から3階までで数百人が収容されました。しかし収容患者は次々に死亡し、入院患者はあとをたたない状況でした。
 10日ごろの様子は悲惨なもので、「その時は、まだ患者はほとんど全裸のままだった。衣服はちぎれており、熱傷をうけた皮膚ははがれて真っ赤な肉芽が露出し、その顔は男女の区別もつかない。手当てする医薬品、衛生材料もなく、港から海水を汲んできて、ドラム缶で煮沸し、これを寝ている患者に如雨露(じょうろ)で散布した。」(仁科記念財団編纂『原子爆弾』より)
 日を追って佐世保海軍病院の医師や、各地の医科大学の医師達が集まり、「新興善救護病院」となったのは、敗戦の翌日の8月16日でした。
 そして10月、坂本町にあって原爆で壊滅した、長崎医科大学付属病院の仮施設となったのでした。
 正面わきの碑文には、「昭和20年8月から10月まで原子爆弾により負傷した数千人の被爆者をここに収容し治療した」とあります。

           ●長崎市興善町1-17 長崎市立諏訪小学校
           ●興善町バス停下車