8.長大医学部 
       


 長崎大学医学部は、被爆当時「長崎医科大学」という名称だった。その前身は、明治の初期までは東京大学と並んで2大学の1つともいわれるほど日本における最高の医学教育機関であり、伝統と由緒に輝く西洋医学発祥の学校であった。
 1945年(昭和20年)8月9日、11時2分、爆心地から東に約600mの距離にあった長崎医科大学の木造建物は、原子爆弾の炸裂により全壊全焼した。教授や学生たちは逃げるひまもなく、倒壊した講堂の下敷きとなり、次いで発生した火災のため焼死し、講堂の焼け跡からは、教授は教壇に、学生は座席についたままの姿で遺骨が発見されたという。長崎医科大学におでる死亡者数は、付属病院を含め、大学関係者と学生を合わせて892名であった。   (説明板より)

傾いた門柱

 1.22メートル四方、高さ1.7メートルのこの門柱は、原爆により、9センチも前にずれ、台座との間に最大で約16センチの隙間ができた。もう一方の柱はわずかに山陰にあったためか、今もまっすぐ立っている。
 爆風圧は一平方センチ当たり1キロ。爆心地の3.5キロに比べて弱まっているものの、この巨岩を動かすほどすさまじかったものと思われる。



  長崎医科大学慰霊碑

 医学部構内のグビロガ丘に、大講堂の石柱残骸を用いて建立されたものである。
 裏面には、永井隆博士の「傷つける友を
               さがして火の中へ
                 とびいりしまま
                   帰らざりけり」の歌が刻まれている。
 傍らに、水を求めて息絶えた被爆者の渇を慰めようと石の口から水が滴り落ちている「慰霊の水」と刻まれた石柱が建っている。


山里浜口町原爆殉難者慰霊碑



 「この丘、この町にて
  昭和二十年(一九四五年)八月九日
  原子爆弾により
  被災されしかたがたの霊よ
  安らかに在られしむことを」
 と、刻まれている。
  そして、碑の下には、復元地図など関係資料がタイムカプセルに納めて埋めてある。