◆吉山 秀子氏

エピソード
 昼夜を問わず語り部の活動等で、お忙しいスケジュールの合間を縫って、取材させていただきました。「被爆体験を語るのは、私の使命です」とおっしゃる吉山さんの姿からは、核兵器廃絶の強い意志を感じました。核兵器廃絶のためにこのホームページが少しでも役にたてれば幸いです。


被爆体験

私の被爆体験
 女学校卒業後、私は茂里町の三菱製鋼所に就職し毎日出勤していました。当時は、自由な発言と行動を束縛する厳しい弾圧のもとにあり、「皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」という言葉のもとに耐えなくてはいけない軍国主義の日本だったのです。このようなことが当たり前の時代だったので、軍国主義の日本の方針を疑問に思いつつも、反発しようとは思いませんでした。
 私は、8月9日、電車に乗って出勤しました。その日は、出勤中の電車の中で警戒警報を聞きましたが、敵機は来ず、すぐに警報は解除されました。そして、いつものように仕事をしていたのです。私は長いことトイレに行っていなかったので、事務所の3回にあるトイレに行きました。用を済ませた後、トイレのドアの取っ手をにぎった瞬間、ピカッと光り、周囲が薄暗くなり、黄臭いものを吸った感じでした。鉄筋コンクリートの事務所でしたので、直射熱線はうけず、火傷もしませんでしたが、ドアのガラスが割れ、その破片が私の頭や体に突き刺さりました。そのガラスの破片を抜いているうちに、抜いたところから噴水のように血が吹き出すのをおさえながら、気を失ってしまったのです。
 どれくらい気を失ったかわわかりませんが、気がついて周りを見渡してみると、そこには、それまであった建物や家々が一瞬にして瓦礫と化していました。
 周りには、死体がたくさんころがっていて、重傷をおって助けを求める人たちが、次々と死んでゆくのです。まさに生き地獄そのものでした。そのとき時間の観念が全くなくなっていた私は、助けを求めようと3日間も歩き回っていました。なぜかお腹は減らず、水はずっと飲みたいと思っていました。そして3日後、妹をつれた母と出会ったのです。私たちは、泣きながら抱いて喜びあいました。

○友人の死
 原爆の投下で九死に一生を得た私は、事務所の近くで死体や怪我をして苦しんでいる人たち、瓦礫となった町を呆然とながめていると近くで「吉山さん、吉山さん」と呼ぶ声がしました。それで声のするほうへ行ってみると、そこには同僚の井出さんがいました。井出啓子さんは、事務所の受付で働いていてとても綺麗な方でした。門の所にある守衛室へ新聞をとりにいって、その新聞を持って事務所に入ろうとしたその瞬間に、原爆の被害にあったそうです。
 事務所の外だったので、あの熱線を直接うけたのです。あの美しい顔が一瞬に一皮むけ、髪の毛もちりぢり、この世の人とは思えぬものでした。井出さんに「水をください」といわれ、私は必死に水をさがし、水を飲ませました。井出さんは、一口ごくりと飲んで、「私の顔どうかなってない?」と私に聞いていました。井出さんの美しかった顔は、程遠く変わり果てていました。私はとっさに「いいえ、どうもなってないよ」と、嘘をつきました。井出さんは、「ほんとう?」と言って、また一口水を飲まれて、それが末期の水になったのです。青春まっただ中の死でした。今、考えてみる時に、綺麗なままで年頃の人生を終わられたのだと良い嘘をついたのだと思います。

○2人の妹の死
 私の妹2人は原爆によって重い病気にかかり死にました。1人めの妹、和子は学徒報国隊で体をこわし、肺結核で昭和21年3月23日に亡くなりました。女学校の勉強もできないで、着るものも食料も薬もない時代でした。死ぬ間際には、「みかんを食べたい、みかんを食べたい」と言いながら口にすることができぬまま死んでいきました。18歳でした。もう1人の妹淳子は、小学6年生のときに被爆しました。しかし被爆後41年目の10月に倒れました。
 原爆手帳所持者は必ず年2回は原爆病院で検査をしていたのですが、その都度「精密検査必要なし」とのことで安心していたのですが、42年目の2月23日に血液の癌、白血病でこの世を去りました。淳子は2人の子を残して、それもわが子の大学の入試のことを心配しながらの、苦しい死に様でした。

○3つの願い
 私たち被爆者は、もうまもなくこの世を去るのだという現実から目をそむけることはできません。私は、自分の信念として3つの願いを叶えたいと思っています。
 1つ目は、三菱製鋼所の螺旋階段を原爆資料館に残すこと。2つ目は、原爆で被爆した人たちの代わりに生かされているのだ。そしてその私が被爆者たちがどのように死んでいったかを語り継いで、むだ死にではない、平和をきずくために死んでいったんだ、ということをみんなに語り継いでいくこと。この2つはいま達成できているのですが、最後の1つがまだできないでいます。
 その最後の1つというのが、核廃絶です。当時亡くなった人たちの死が、なんで死んでいったのか、同じことをくり返したくはないのです。武力で平和を守ることは私は間違ってると思います。だから、みんなに被爆体験を話し、核兵器はどういうものだったのかを知ってもらい、私がなしえなかった核兵器の生産禁止と廃絶を21世紀を生きる若い人たちに継承し、核兵器のない世界になるよう、私自身も残りの人生活動していこうと思います。