山口 仙二氏

エピソード
 山口さんにどうしてもお会いしたくて、五島の自宅の方へ何度も電話をかけました。しかし全く連絡が取れず、諦めかけていたとき、ようやくお会いできるチャンスに恵まれました。その当日、体調の不調にもかかわらず快く迎えて下さり、親切なお人柄にふれることができました。
 現在、経営していた建築事務所を閉鎖し、連日のように核廃絶へ向けての活動のため日本全国を飛び回り、生涯をその活動に捧げたいと言われるその姿に強く心を打たれました。

被爆体験

 私が被爆したのは14歳、三菱兵器工場への学徒動員中だった。班長の命令で4、5人一組になって防空壕を掘っていると、ピカッ!と閃光がして、そのまま気絶して倒れて しまった。気がつくと鍬(くわ)を持ったまま壕の中に倒れていた。
 周囲は一変し、生き地獄だった。何十人かの死体を踏みこえ、浦上川を渡って山の方へ逃げた。素足にパンツ一枚だったが、見ると私も他人と同様に両手や胸、腹などが黒く焦げてふくれあがっていた。
 その後、大村の海軍病院に運ばれたが、当初は意識不明の 状態だった。治療を受けるとき、肉がめりこんだガーゼをはぎとるので、そのたびに「殺せ、殺してくれ!」と叫んだ。
 ある日、体中にチカチカと激しい痛みを覚え、包帯を解いてもらうと、まるまる肥った蛆(うじ)虫がボロボロッと落ち、つまみ出された何百匹もの蛆虫は、ジグザグデモをやって いるようにもつれ合っていた。
 翌日、焼けただれた右の耳にも大小30匹ほどの蛆虫が繁殖していた。蛆虫は、ほとんどの負傷者を苦しめたが、それはまさに“蛆地獄”だった。

就職

 私は原爆から7カ月たった翌年3月9日、大村の病院を退院した。長崎工業高校の機械科を卒業したのは1951年の春、20歳の時だった。ここを出ると三菱の技手補の資格が与えられるので、私もよく勉強し成績も良かった。三菱造船の試験にもパスした。だが、身体検査で不合格となった。顔半分にみにくい傷痕があり、首から肘へケロイドが流れていたためか? 絶望と怒りで全身が煮えくり返るように震えた。

 真珠湾を攻撃した帝国海軍の魚雷、戦艦武蔵をつくった三菱、お前のために長崎が狙われたのに。俺たちは学業半ばに三菱に動員され、そのあげく原爆に焼かれ、こんな片輪にされ、一銭の補償もしないで、今度は俺をクビにするというのか・・・・。 私はやむなく郷里の五島に帰り、父と菓子屋や農業をやる。だがそれもうまくいかず、1953年に田畑や家を売り払って長崎へ出て、坂本町で饅頭屋を開いた。

結婚

 私は結婚をしたが、原爆のせいか子どもはできなかった。そこで二人の養女をひきとって育てた。

被爆者運動へ

 1955年10月1日、私と十数人の青年たちは被爆者の苦しみと実態を訴えるために「長崎原爆青年の会」をつくった。私はいまも入退院を繰り返しながら、核兵器廃絶と真の被爆者援護法の実現を目指し、必死の活動を続けている。

草の根から世界へ

 今でも鏡をのぞくのはいやだし、去年も2カ月半入院して手術を受けた。2人の養女も成人したので、経営していた建築事務所を閉鎖し、残りの生涯を反核と被爆者運動に捧げようと決意した。おとなたちが子どもたちに遺すべき最高の遺産、それは平和だから。それが死者への最大の供養だから。