◆内田 伯氏

エピソード
 私達は初めての取材で緊張していたものの、内田さんが暖かく迎えてくれたので少しずつ緊張も ほぐれてきました。私達は内田さんの資料をまじえたお話に時間が経つのを忘れ聞きいっていました。
 「もっと平和について考えてほしい」と言う内田さんの言葉に私達は改めて平和の尊さ・戦争の愚かさ について考えさせられました。

 


被爆体験

○父との最後の会話
 8月9日の朝、私は目を覚ますなり隣で寝ていた父に時刻を尋ねた。腕時計を見ながら「6時10分だ」と教えてくれた父の声に私は安堵した。なぜならば、当時15歳、長崎県立瓊浦中学の4年生だった私は政府による学徒動員令によって、三菱兵器製作所に動員され、毎日午前7時までには工場に行かなければならなかった。私の家がある松山町から製作所の工場がある大橋町までそう遠くなく、私は遅くとも10分前の6時50分には工場に着くようにしていた。今、6時10分なら家を出るまでに少し余裕がある。そう思い、ゆっくりと準備をしていたが、ふと時間が気になり、もう一度、今度は玄関の方にあった柱時計を見に行ってみると、7時10分前をさしていた。
 おそらく父の腕時計は遅れていたのだろう。私は慌てた。以前2回ほど、遅刻をしたことがあったが、これで3回目となるのは確実だった。工場に遅刻するとどうなるか、工場では海軍の監督官が遅刻者をチェックしており、それが3回目ともなると、大変な目に遭うことになる。急いで準備を済ませ、靴を履き、家を飛び出ようとすると、玄関口に父が出てきた。私は焦りからか、父に向かって「お父さんのせいで工場に遅れる。そうしたら顔がはれるほど殴られる。その顔を弟や妹に見せたくないから、今日は友達の家に泊まってくるかもしれない」といったようなことを感情にまかせて早口でまくしたて、そのまま家を飛び出した。
 今、思えばそれが父とかわした最期の会話となった。この時、このような形で父と別れてしまったことを現在でも非常に残念に思っている。しかし、まさかその日、8月9日に長崎に原子爆弾が落とされようと、誰が予想できたであろうか。当時の私には知る由もなかった。

○被爆と友人の死
 午前11時2分、私は三菱兵器製作所大橋工場の中で被爆した。強烈な青い光と衝撃波が起こったかと思うと、工場の屋根ガラスが吹き飛び、その破片が降り注いだ。私は頭に大きなガラスの破片と折れ曲がった鉄骨が当たり、骨に達するほどの傷を負った。血が吹き出るように流れ、止血しようと傷口にタオルをあてるが効果はなく、血に染まったタオルを数回絞ったところで気を失った。気がつくと辺りの様子は一変していた。鉄骨は飴のように曲がり、あちこちに人が倒れていた。無意識のうちに工場を這い出したところを誰かに助けられ、近くの小高い丘に運ばれた。そこには幸いにもヨモギが生えており、それを何度も絞って傷口にあてる事でようやく出血がおさまった。血が止まると急に家の事が気になりだし、浦上駅の方向を見ると、一面ローラーに押しつぶされたような中に、三菱製鋼所の煙突がわずかに立っているといったすさまじい状況を目の当たりにして非常に驚いた。
 午後2時頃に救援第一号列車が到着するとのことで、道の尾駅より500メートルほど南の田んぼ付近には、たくさんの負傷者がひしめいていた。私も汽車に乗り込むと、親しかった友人が私に気付き、近付いてきた。彼は全身血だらけの私の体に触って、「死んだらいかんぞ」と励ましてくれた。また、彼は自分の傷の具合を「自分は軽い方だろう」と私に確認を求めてきた。彼は体も顔も全身真っ黒く焼け、目も見えないようで、どう見ても私より重傷であったが、私は「軽くて良かった」と言って、彼の肩を抱いた。すると、その部分の皮が剥げ落ち、二人とも一瞬気まずい思いになってしまった。筋肉が空気に触れたため、あまりの痛さに彼は大声を出し続けた。
 しばらくすると彼は静かになってしまった。すでに息を引き取っていたのだった。彼とはいつも一緒に昼食をとっていて、その日の午前11時頃も「腹が減ったので早く飯を食べよう」と私を誘ってきたのだが、「少し早すぎる」と断った。そのため彼は工場の外に出た瞬間、熱線の直射を浴びたのである。それを思うと、今でも私の胸は激しく痛むのである。

○母との再会、家族の死
 その日、暗くなってから汽車は大村に着き、私は海軍病院へと運ばれた。翌朝、同じ病室のベッドが次々に運ばれていく音で目を覚ました。「同室の人達はもう退院か」と自分だけ取り残されたような思いだったが、なんだか様子がおかしいので看護婦さんに尋ねると、「みんなお亡くなりになりました」と言われた。私は驚き、そして自分のベッドの中に散らばる無数のガラスの破片を見て体に震えがきた。その後、私は一時危険な状態になったこともあったが、当時としては最高の治療を受け、入院から1週間目に退院を許された。そして私はまた汽車に乗り、道の尾駅で下車し、我が家のあった松山町へと向かった。その途中にある住吉トンネル工場の入り口近くで、偶然、母と再会した。母は当時、長崎を離れ、雲仙の近くに行っていたので被爆を免れたのだった。母は気が狂ったように私に抱きつき喜んだ。ずいぶんたくさんの収容所を探しても私が見つからず、疲れ果て、つい、うとうと眠って見た夢の中で、まだ暖かい私の血が流れてきたので、どこかにまだ生きていると思ったのだという。
 私が我が家の跡に立った時、まだ父の遺体以外はわからない状態だった。私はまだこの周りに弟たちの遺骨が埋まっているはずだと思い、近くにあった金属と茶わんのかけらで掘り返した。すると、チリ紙の重なったような、骨らしき塊が出てきた。それに木の棒をあてると崩れ落ち、風に乗って飛び去っていった。私の中から怒りといいようのない思いがこみ上げた。弟は父に早く疎開したいと訴えていたが、日本の勝利を信じて疑わない父に「お前は非国民だ」と罵られていた。なぜ、弟たちが死ななければならないのか、今でも無念でならない。

○最後に
 私は瓊浦中学を卒業し、旧制の専門学校を1年で終了後、新しく開設された長崎大学に入学し、教養課程をへて東京の大学への編入を試みたが、体調をくずし長崎へ戻ってきた。その後は運よく長崎市役所採用となった。こうして1970年には原爆被爆地の復元調査運動に参加し、長崎市原爆復元調査室との共同作業により、爆心地松山町から半径2キロメートルにあった48か町の街並の復元をみることとなった。
 広島・長崎への原子爆弾の投下は、人間がおかしたあまりにも非人道的な行為であったと思う。平和が長く続いているため、戦争を知らない若い世代は「平和」について考えることを妨げてきたと思っている。人類共通の願いである平和を被爆地長崎から世界へ向けて今後とも発信し続けて欲しいと願っています。