谷口稜曄氏

エピソード
 小雨の降る寒い日に谷口さんとお会いしました。緊張気味の私たちを暖かく迎えて下さり、2時間近くにわたり貴重なお話を聞かせていただきました。現在の核問題を熱く語るそのお姿からは、もう一度お会いしたくなるような親しみが感じられ、私たちにたくさんの励ましの言葉をかけて下さいました。
 「がんばらなければ…」という思いを改めて感じつつ、その場を後にしました。




被爆体験

 私が被爆したのは16歳、住吉町の路上で郵便配達
中だった。稲妻のような閃光がして、自転車もろとも
地面に叩きつけられた。気がつくと左手は腕から指先
まで皮膚がはげて垂れ下がり、背中や尻もヌルヌルと
焼けただれ、シャツや服は前の方だけ残っていた。
三菱兵器のトンネル工場にやっと辿りつくが、その後
はもう立てなくなって、それから私の腹這いの生活が
始まった。各地の救護所を転々とした後、11月に大
村の海軍病院に送られた。私の半焼けになった身体の
肉は腐って膿となり、ベッドの上に流れ落ちた。幾度
となく「殺してくれ!」と叫んだ。

 

まっかに焼けただれ、うつ伏せになっている少年の写真。それは疑いもなく私自身だ。背中はバンドの部分を除いて尻まで丸焼けになり、左足の外側は膝から上が全部火傷、顎と左顔面と胸全体に床ずれができ、左肘は110度までしか伸びなくなって いた。 3年目の春、退院の許可が下りた。だが、ここでまた新たな悩みと不安がやってきた。
 「こんな体で社会人として皆と一緒に働けるのか」「皆がどんな目で見るだろうか」
 私は毎晩、病室の外に出て泣いた。

就職

 私は退院後ほどなく元の郵便局へ復帰した。

結婚

 職場に復帰し、後遺症の治療が進むなかで成人した私は、いくつかの結婚申込みをしたが、「なんで傷だらけの、長生きもできそうにない人と結婚できますか」と断られた。さいわい叔母の計らいで見合い結婚をしたが、顔の傷しか知らされていなかった妻は、新婚旅行で私の体を見て、旅の間中泣き続けていた。私たちが旅行から帰ると、皆はあっけにとられた表情だった。実は「二人は旅行から一緒には帰ってこないだろう」と皆で話していたそうだ。しかし、後で妻に聞くと、最初は「叔母さんにだまされた」という気持ちもあったが、すぐに「この人を自分が見てやらなければ、いったい誰が見てくれるだろうか」と決心したとのことだった。
 だが、子供が生まれるときは、私も妻も「正常な子どもが生まれるだろうか」と非常に心配した。さいわい五体満足だったが、大きくなるにつれ悩みも出てきた。たとえば夏になると海水浴にも行きたがる。私は裸になるのがつらく、シャツを着て泳いでいた。
 しかし、原水禁運動が進む中で、あえて裸になろうと決心した。「私の身体を見てしまった人は、顔をそむけないで、私と一緒に原水禁運動に参加してほしい。二度とこんな大きな不幸を背負わないでほしい」と。

被爆者運動へ

 1956年5月、乙女の会と青年の会が合併して「長崎原爆青年乙女の会」がつくられ、私は会長に就任した。山口さんらと協力して核兵器廃絶と真の被爆者援護法の実現を目指し必死の活動をしている。

草の根から世界へ

 私は母が亡くなって14歳で郵便局に勤め、もう50年が過ぎた。さいわい妻の協力で息子と娘の2人をどうにか成人させた。毎年ケロイドのあとに腫瘍ができて手術を受けているが、この傷だらけの病躯にむち打って東に西に反原爆の旅を続けている。
 「原爆症が出たらもう死を待つのみだ」と覚悟している。生ある限り証言し続けたい。