◆崎田 昭夫氏

エピソード
 初めての取材ということもあって、言葉少なめになっていた私達でしたが、崎田さんが快く迎えて下さったおかげで、体調がすぐれなかったにも関わらず長時間に渡って貴重な体験を聞かせてもらう事ができました。お話の中で「だれを憎むのではない憎む前に何かすることがあるのではないか。」と思い現在の活動を行っている事を知った私達は、そのお姿にいたく感動し、同時に今後の研究の励みになりました。


被爆体験

8月9日

 その日、私は工場の夜勤を終えて帰宅していたが、原子爆弾が投下される直前、シャツを洗濯するために上半身裸になって、屋外にある自宅の裏庭に出ていた。
 ちょうどそのとき、裏山の金毘羅山の方から、突然かすかに飛行機の爆音が聞こえてきた。
 私は一瞬「敵機かな?」と思ったがすぐその後で「空襲警報は解除されているのだから、たぶん日本の飛行機だろう」と思い直し、あまり気に止めなかった。
 するとその直後、その飛行機が飛び去ったと思われる方向で、突然「ボーン!」と高射砲弾の炸裂したような鈍い音がした。私が「あれっ!今のは敵機だったのかな」と思って、すぐその音のした方向を見上げたら、「ピカッ!」と目もくらむような閃光が大空にきらめき、灼熱の光線が私の体に降り注いできた。私はその瞬間、顔面に焼け付くような激痛を感じたので、目をしっかり閉じて地面にうずくまった。熱線の放射はその後もひっきりなしに続き、私はその間、灼熱地獄の苦しみを味わった。気の遠くなるような長い時間が過ぎて、やっと苦しみから解放されたとき、私は上半身ずぶずぶに焼けただれ、大火傷を負っていた。
 私が被爆したところは爆心地から1.6キロメートルの地点にあったが、その中間に小高い丘があり、そのために原爆の威力が少し弱められたのか近くにはまだ大きな火災は起きていなかった。しかし、丘の向こうの爆心地方面や、茂里町の工場地帯は一瞬にして大火災が起こりもくもくと黒煙が空高く舞い昇っていた。そして、私の立っている所から300メートルほど北方の丘には、地面に沿って風にあおられたみたいに黒煙が吹き抜ける中を、大勢の人々が列を作って避難する姿が展望された。
 そこで私も一刻も早く避難しなければ大変なことになると思い、ただ一人傷ついた体で、上半身裸で裸足のまま山上に向かって駆け出した。
 それからかなり時間がたってやっと山腹の道路にでたら、そこには、衣服がボロボロに焼け焦がれて、裸同然になり、全身も赤黒く焼けただれ、丸々とふくれあがった無数の死体がごろごろと横たわっていた。
 その後、いろいろなことを体験しながら山を下り、傷の手当を受けるために勝山国民学校へ行った。その時、学校の校庭は窓ガラスが散乱し、とてもその上を裸足で歩いて行けそうにもなかったが、私は傷の手当を受けたい一心で、足の裏にガラスの破片が突き刺さるのもかまわずその上を歩いて行った。
 救護室には重体患者が殺到し、まるで戦場のような光景が展開されていた。その中で、2、3人の看護婦さんが負傷者の間を駆け回って、懸命の応急処置をしていたが、人手が足りなくて、私なんかいくら待っていても治療してもらえそうもなかった。それで、私は看護婦さんに何回も頼んだ末やっと、ワセリンの入った小さな缶をほうりなげてもらい、自分で応急手当をした。しかし、火傷の一番ひどい背中には手が届かないので、その部分の治療は断念した。その後、一応自分の家に帰ってみようと思い勝山国民学校を出た。
 ところがそこでは数名の警防団員が道路いっぱいにロープで非常線を張り、交通を遮断していた。自宅の方を見たら、太陽も見えないくらいにもうもうと黒い煙に包まれ、大火災が起きていた。
 私は「あの中に両親や姉達がおるので是非私を行かせて下さい」と必死になって懇願した。でもその人達は、「今、あそこに行ったら君の命がなくなるよ」と言って、どうしても私の頼みを聞いてくれなかった。それで私は家に帰る事を断念し、抵抗をやめたら、警防団員がやっとその手を離してくれた。私は長い間、呆然とその場に立ち尽くした。しかし、いつまでもそうしておれないので「今晩一晩だけでも泊めてもらえる所はないだろうか」と考え始めた。そして、やっと館内町に遠縁の親類がただ一軒あるのを思い出し、そこを頼っていくことにした。
 被爆以来、私は食事もとらずに、逃げ回っていたので、3日目の朝、親類の家に着いたとたん、遂に意識不明になって倒れた。そこで私は治療を受けるためにそのままリヤカーに乗せられ、爆心地を通って大橋町の三菱兵器製作工場へ運ばれた。ところが、その工場は全滅状態だったため、重傷者ばかり長崎市外、茂木町の臨時救護所へトラックで転送された。私は救護所に収容されてからも、かなり長い間、意識不明の状態が続いたがその後意識を取り戻し、8月末頃からだんだん快方に向かい始めた。しかし、9月初旬、また症状が悪化し、急性原爆症を併発して危篤状態に陥った。私のそばには付き添い人もおらず、医師や看護婦にも見放され、死を待つばかりとなった。その時思いがけなく父が松葉杖をつきながら、私の所へ駆け付けて必死の看病をしてくれたので、私は九死に一生を得た。
 今もなお、原爆症に苦しみながら亡くなられる方が後を絶たない。こんな苦しみは、私達だけでもうたくさんである。広島、長崎の悲劇を二度と繰り返してはならない。世の中から戦争をなくすためには、すべての人々が平和の尊さをよく噛みしめ、お互いの立場に立って相手をよく理解し合い、助け合わなければならない。
 私はこれからの時代を担う若い皆さんに、このことを強く期待している。そして、同時に、世界中の人々が核兵器の脅威を感じることなく、戦争のない未来を迎えてもらいたいと心から祈念してやまない。