◆Bak Min Kyu氏

 1926年朝鮮生まれ。13歳の時、渡日し、19歳の時、長崎で祖国解放を迎える。現在は、80年に組織した「長崎朝鮮人被爆者協議会」で、証言活動を行っている。
 在日朝鮮人被爆者に対する差別の話を聞き、日本政府の戦争責任の取り方について、改めて考えさせられた。

8月9日

 被爆当日、私は『移動証明書』を作成してもらう為に、袋町(現、栄町)にある仮市役所に出掛けていた。そこへ行く途中、空を見上げると、落下傘のついた黒い物体が風に乗り、浦上の方に流されていた。あれこそ原子爆弾だったのだ!!
 市役所に着き、事務員が証明書に印鑑を押したその瞬間である。一瞬ピカーッと光ると同時に、天井が音をたてて崩れ落ちた。しばらく伏せた後、必死に外へ飛び出すと、道路にはガラスの破片や板切れが散らばっていた。何がなんだか分からないまま防空壕を見つけて入ろうとすると、日本刀を振り回した将校に「たたっ切る、でていけ」と追い出された。あの言葉は今も忘れられない。そこで、すぐ近くに墓石が割れていたので、その墓の中にもぐり込んで身をひそめていた。
 夕方そこを出て、県庁の坂にくると屋上の見張台の上が燃えており、消防手もただ呆然としていた。大波止に行くと、上村組の船が迎えに来ていたので、それに乗って夜10時頃小瀬戸に帰った。
 翌日、疎開工事に出たまま戻らない二人の仲間を探しに出掛けた。道ばたの水たまりは油や血でヌルヌルしており、喉が乾き切った子どもが夢中で飲んでは、血を吐いて倒れる。それがもう、悪夢のようだった。その時は二人の仲間を見つけることが出来なかった。2、3日して、もう一度出掛けた時、稲佐校の校庭で「ムル(水)、ムル、、、」という声が聞こえてきた。朝鮮人だと思い近寄ってみると、探し求めていた二人が、真っ赤な目を開けたまま、涙さえ乾いて生きているのか死んでいるのか分からない状態で横たわっていた。足には白い骨が見え、体中にウジがわいている。水をすくって口に当ててやると、もうそれっきり、ものも言わずに息をひきとってしまった。服は燃え焦げて、大事なところだけかぶせてあった。起こそうとして手を握ると、肉がくっついてベトベトになって、起こすことも抱きとることも出来なかった。
 2人共、徴用で日本に召集され、2年間の徴用の期限がもうすぐ切れる、もうじき故郷に戻れる、と楽しみにしていただけにいっそう切なかった。
 数日後、私は40度以上の熱をだし、髪が抜け、どす黒い血を洗面器いっぱいに吐いて寝込んでしまった。そして、8月15日、終戦を告げるラジオ放送を聞いた。私はその時19歳と10ヶ月、その年の4月に徴用検査があり、甲種合格だったので、赤紙(召集令状)が来るものと覚悟していた。本当にきわどいところだった。

 祖国解放後、みんな朝鮮へ帰る準備を始めた。だが、私は、帰れば二度と日本へ来れないかも知れないと思い、日本に残ることにした。そして、この年の12月7日、朝鮮人連盟の結成式に参加し、それがきっかけで地方次長として活動を始めた。翌46年には引き揚げ者の世話をしたり、在日朝鮮人による民族学校の教師をしていた。しかしその朝連は、アメリカの命令で49年には解散させられ、事務所に200人くらいの機動隊がやってきて、名簿や財産全てを没収された。
 その後、在日朝鮮人は日本政府の度重なる差別政策にも屈せず、55年に在日朝鮮人総連合会が結成されてからは、祖国の統一と在日朝鮮人の権利擁護のために活動してきた。80年には、「長崎県朝鮮人被爆者協議会」を組織し、現在も自身の被爆体験を語り続けている。



私たちの願い

 今まで私たちは、政府に対して、朝鮮人被爆者の存在を認めることを求めるなど、積極的な要望も行ってきた。79年には、爆心地公園内に「長崎原爆朝鮮人犠牲者追悼碑」を建立した。95年に施行された被爆者援護法には、日本政府の差別政策が温存されている。被爆者は日本人だけではない。在日、在外を問わず、日本政府の戦争責任の償いとして、全部の被爆者を対象とすること、つまり国籍条項を撤廃することが必要だ。日本政府が本当にかつての侵略戦争を反省するのなら、原爆と戦争被害の全てに責任をとるべきだ。
 私は、今後も自分の残された生涯をかけて、日本の侵略と戦後の不当な差別の現状を追求していきたいと思っている。